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富村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
富村(近世) 江戸期~明治8年の村名栗原郡のうち二迫【にのはさま】川・芋埣【いもぞね】川の合流点付近の平坦地を占める仙台藩蔵入地・給人地「元禄郷帳」の村高は972石余,「天保郷帳」では1,524石余「封内風土記」の戸口81軒村内に鹿島・香取を相殿にまつる白山権現社,康正2年開山と伝える曹洞宗常現寺がある(封内風土記)明治元年宇都宮藩預り地となり,以後,栗原県・胆沢【いさわ】県・登米【とめ】県・一関県・水沢県・磐井【いわい】県に所属明治8年城生野【じようの】村と合併,富野村の一部となるなお「伊達治家記録」天正19年6月28日条に「葛西の旧臣栗原郡富村の住人富左馬允」なる者が見え,この富村を当町内の旧富村とする説もある栗原郡には富村が2つあり,1つは当町内で,もう1つは瀬峰町内である当町域の富村は二迫と呼ばれるからせまく,もう一方の富村は瀬峰町のそれと考えるのがよい... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
富村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国大分郡阿南【あなみ】荘のうち大分川とその支流阿蘇野川にはさまれた河岸段丘上に位置する文禄3年早川長敏領,慶長2年福原直高領,同4年早川長敏再封,同6年竹中重利領,寛永11年日根野吉明領,万治元年からは大給松平府内藩領奥郷野畑組に所属村高は「正保郷帳」68石余,うち田13石余・畑55石余,元禄10年の「府内領郷帳」および「見稲簿」は129石余「天保郷帳」143石余,「旧高旧領」146石余日根野吉明が永宝水(井路)開発の時勧請し,天和4年再営された若宮社と午王社がある明治4年大分県に所属同8年大分郡下田向村・瓜生田村・入小野村と合併して柿原村となる現在の大分郡庄内町大字柿原のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
富村(近世) 江戸期~明治8年の村名栗原郡のうち小山田川北岸に位置し,中村の北方に当る起伏の多い丘陵と小山田川流域の平地から成る天正19年6月28日,葛西大崎一揆の際栗原郡富村の富左馬允が政宗に味方したと「伊達治家記録」にある江戸初期は林氏・矢目氏の知行地で,村高61貫余・田畑合計60町6反余・帳付百姓(本百姓)23人(寛永18年検地帳)延宝7年には田畑110町6反余・村高91貫余,「天保郷帳」では1,044石余,明治5年には131町歩余・人口334(瀬峰町史)明治元年宇都宮藩預り地となり,その後栗原県・胆沢【いさわ】県・登米【とめ】県・一関県・水沢県・磐井【いわい】県に所属同8年中村と合併,大里村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
富村(近世) 江戸初期の村名備前国上道郡のうち慶長7年2月14日の小早川秀詮寺領宛行状写(黄薇古簡集)に「於備前国上道郡富村之内二十石,為寺領加増遣之」とあり,瓶井山禅光寺と推定される寺院に当村などが宛行われている現在の岡山市西大寺門前付近と推定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」